道徳の教科書などで使用されている『星野君の二塁打』という児童小説があります。
野球大会で打席に立った星野君に、監督は送りバントのサインを出します。しかし、星野君はサインを無視して、二塁打を打ちました。チームは勝ちましたが、監督に叱られてしまいます。「犠牲の精神がわからない人間は社会をよくすることができない」星野君は次の試合では外されてしまいます。
このお話に、批判的な意見がかなりあるようです。軍隊のようだ、押し付けだ、という声で、わかるような気もします。この『星野君の二塁打』について分析をしている本まであるそうで、原作と、教科書のちがいや、時代背景など深く考察しているようです。
といっても、ぼくは、このお話も、分析本も読んでいないので、きちんとした意見はいえないのですが(すみません)、野球ファンとしては、少し語ってみたい気がします。
まず、その場面での送りバントが適切な作戦だったかどうか、ですね。この本が書かれた戦後すぐでは、確実に送りバントというのがセオリーだったと思いますが、いまは、送りバントをしない作戦も増えてきました。
相手ピッチャーの調子や、バッターの調子、天候や、次のバッター、次のピッチャー、次の試合、相手の守備位置、審判の癖、グラウンドコンディションなどなど、バントにするかどうか、さまざまな要素があります。結果として二塁打を打ったので、野球センスがある子なのでしょう。その子の判断が正しかった可能性もあります。
ただし、結果オーライというのも、よくありません。結果がいくらよくても、ここでバントをしないのはどう考えてもおかしい、という場面があるのも事実なのですね。原作の本にもある程度の状況は書かれていると思いますが、グラウンドコンディションや、その場面の前までの配球までは書かれていないと思います。そうなると、一概に、どうすればいいとはいえないなあ、と思うのです。
野球ファンの妄想満開のコラムになってしまい、申し訳ないのですが、『星野君の二塁打』を道徳だけの教材にするのではなく、野球のおもしろさをもっと深めるための本にしたらどうだろう、という主張ですね。原作者の意図からはかなり外れているでしょうが……。
そういうことを考えるのも、おもしろいのではと思います。大谷翔平選手にはだれも送りバントはさせないと思いますが、どんな場面だったら、送りバントのサインを出すだろう、なんて考えるのも、楽しい頭の体操になると思うのですが、いかかでしょうか。おもしろいのは野球ファンだけですね。失礼いたしました!