種田山頭火という人をご存知でしょうか。自由律俳句という、定型にこだわらない句を作りつづけた放浪の俳人です。『分け入つても分け入つても青い山』『どうしようもない私が歩いている』などの句が有名です。
今回は、その山頭火の文章からご紹介したいと思います。山頭火が日向地方を歩いていたとき、中年の、痩せて蒼白い、見るから神経質そうな男に突然問われました。以下、引用します。
『あなたは禅宗の坊さんですか。……私の道はどこにありましょうか』
『道は前にあります、まっすぐにお行きなさい』
私は或は路上問答を試みられたのかも知れないが、とにかく彼は私の即答に満足したらしく、彼の前にある道をまっすぐに行った。
道は前にある、まっすぐに行こう。――これは私の信念である。この語句を裏書するだけの力量を私は具有していないけれど、この語句が暗示する意義は今でも間違っていないと信じている。
つづけて、山頭火は、俳句について書いています。
句作の道――道としての句作についても同様の事がいえると思う。句材は随時随処にある、それをいかに把握するか、言葉をかえていえば、自然をどれだけ見得するか、そこに彼の人格が現われ彼の境涯が成り立つ、彼の句格が定まり彼の句品が出て来るのである。
山は山でよろしい、水は水でよろしいのである、という言葉もありました。最後に山頭火はこう書いています。
道は非凡を求むるところになくして、平凡を行ずることにある。漸々修学から一超直入が生れるのである。飛躍の母胎は沈潜である。
所詮、句を磨くことは人を磨くことであり、人のかがやきは句のかがやきとなる。人を離れて道はなく、道を離れて人はない。
道は前にある、まっすぐに行こう、まっすぐに行こう。
(「三八九」第六集 昭和八年二月二十八日発行 より)
山頭火自身について書かれたさまざまな本から受けたイメージと、この随筆ではずいぶん印象が違っていたので驚きましたが、深くうなずける部分が多くありました。子どもたちの作る俳句がかがやいているのは、その子どもたちの自然な心のかがやきがでているからなのだなと改めて思いました。ぼくの、NEWSの、そして子どもたちの前にある道は、どこへつづいているのでしょう。いつまでも、子どもたちのかがやきを見失わないようにしなければなりません。まっすぐに、まっすぐに。
山頭火の句も載せておきます。句の前にある言葉も山頭火のものです。
茶の花をじっと観ていると、私は老を感じる。人生の冬を感じる。私の身心を流れている伝統的日本がうごめくのを感じる。
茶の花や身にちかく冬が来てゐる
柿は日本固有の、日本独特のものと聞いた。柿に日本の味があるのはあたりまえすぎるあたりまえであろう。
みんないつしよに柿をもぎつつ柿をたべつつ
楢の葉よ、いつまでも野性の純真を失うな。骨ぶといのがお前の持前だ。
楢の葉の枯れて落ちない声を聴け
このみちや
いくたりゆきし
われはけふゆく
NEWS板橋校、NEWS青葉台校、NEWSセンター北校室長
三木 裕