先日、神保町へエムナマエさんの個展を見に行った帰り、古本屋で太宰治の本を買いました。といっても正規の作品集ではなく、さまざまな小説や随筆の中から名言を選んで編んだものと、自分の人生や作品についての随筆を載せたものです。名言は、有名な、「生れて、すみません」(二十世紀旗手)から始まっていました。さすが太宰というものや、ちょっと意外なものまで、たくさん載っていておもしろく読んでおります。いくつかご紹介しましょう。
すべての芸術は、社会の経済機構から放たれた屁である。
これだけは言い得る。窓ひらく。好人物の夫婦。出世。蜜柑。春。結婚まで。鯉。あすなろう。等々。生きていることへの感謝の念でいっぱいの小説こそ、不滅のものを持っている。
私小説を書く場合でさえ、作者は、たいてい自身を「いい子」にして書いて在る。「いい子」でない自叙伝的小説の主人公があっただろうか。
愛は言葉だ。言葉が無くなりゃ、同時にこの世の中に、愛情も無くなるんだ。
私は自分を、下手な作家だと思っています、なんとかして自分の胸の思いをわかってもらいたくて、さまざまなスタイルを試みているのですが、成功しているとは思えません。不器用な努力です。私は、ふざけていません。
人はあてにならない、という発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。
自分を駄目だと思い得る人は、それだけでも既に尊敬するに足る人物である。
教養の無いところに幸福無し、教養とは、まず、ハニカミを知る事也。
私は、映画を、ばかにしているのかも知れない。芸術だとは思っていない。おしるこだと思っている。けれども人は、芸術よりも、おしるこに感謝したい時がある。そんな時は、ずいぶん多い。
笑い。これは強い。文化の果の、花火である。
志賀直哉という作家がある。アマチュアである。六大学リーグ戦である。
文学に於いて、「難解」はあり得ない。「難解」は「自然」のなかだけにあるのだ。文学というものは、その難解な自然を、おのおのの自己流の角度から、すぱっと斬っ(たふりをし)て、その斬り口のあざやかさを誇ることに潜んで在るのではないのか。
私は詩人というものを尊敬している。純粋の詩人とは、人間以上のもので、たしかに天使であると信じている。だから私は、世の中の詩人たちに対して期待も大きく、そうしてたいてい失望している。天使でもないのに詩人と自称して気取っているへんな人物が多いのである。
も少し弱くなれ。文学者ならば弱くなれ。
などなど……。書き続けているとどんどん長くなってしまいそうです。いいですねえ。しびれます。太宰といまパソコンで打とうとしたとき、先に堕罪と出てきました。これもなにかの象徴でしょうか? 熱心な読者ではなかったのですが、その中でぼくが一番好きな太宰の作品は『トカトントン』です。授業とか読書感想文とか、そういうことと少し離れて、ぼんやりと本を読んで、ぼんやりと大勢の人たちと太宰の話などしてみたいな、と思ったりしました。大人向けのものになりそうですが、中高生のみんなにも読んでほしいように思います。はまっちゃったらまずいような気もしますが……。ただ、太宰の言う文学、詩、愛、言葉は、NEWSで子どもたちが書いてくれる作文の中にうまっているとぼくは確信しています。ひさしぶりに太宰の言葉にふれて、いろいろと考えてしまいました。今夜も秋の夜長、読書の秋です。
NEWS板橋校室長
三木 裕