10月の終わりから11月にかけまして回数調整のためのお休みをNEWSはいただいておりました。本当は阪神タイガースの日本シリーズをテレビでじっくり堪能するはずだったのですがあっというまに終了してしまいまして、まあ、それはそれとして(気持ちの切り替えの早さは阪神ファンの習性です)、父親のところへ行ったり、友人に会ったりして、のんびりと過ごしました。
さて、そのお休み中に夜ドラマを見ておりましたら、急に、八木重吉の詩を朗読する小学生が出てきて驚きました。こんな詩です。
わたしみずからのなかでもいい
わたしの外の せかいでもいい
どこにか「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
それが 敵であっても かまわない
及びがたくでも よい
ただ
ああ ひさしくも これを追うに つかれたこころ
ドラマとはいえ小学生が突然暗誦するのも驚きですが、もっと驚いたのは、本当に偶然、ぼくは八木重吉の詩集をその数日前に図書館で借りていたことです。なんとなく急に読みたくなりまして……。この詩集の序として、以下の文が冒頭に書かれています。
そのドラマを見終わったあと、八木重吉の詩集を読み進めました。そして読了後、ある予感、確信にとらわれまして、すぐに別の本を手に取りました。前から読みたいと思っていながらまだ読んでいなかった忌野清志郎のエッセイ集『瀕死の双六問屋』です。その本も一気に読み終わり、ぼくの予感、確信は、正しかったと思いました。八木重吉と忌野清志郎、あまり共通点はないかもしれませんが、この二人は、生涯をかけて、「ほんとうにうつくしいもの」を探し続けていた人たちなのではないかと思ったのです。方法はすこし違うかもしれませんが……。清志郎の本からいくつか心の残ったフレーズを。
あの、いばっている奴らは早く居なくなって欲しいよ。何もわかってないくせに偉そうにしてるなんて、そんなみっともないことはない。みんな同じ人間でこの国の国民でこの星の住人なのにさ。
なんか、いつも僕は同じような事を書いているな。まあ、それもいいだろ? 30年間同じような事を歌ってきたんだから。
俺はそろそろ出かける時間だ。失礼する。まだしばらくは君のそばにいるはずだ。
もう清志郎がいないというのがちょっと不思議な、信じられない感じがします。この秋の休みに、常になにかと戦い続け、叫び続けた二人の詩人とロッカーの本を読みました。とても、とても、感動しました。
最後に八木重吉の詩の断章を。なぜ八木重吉の詩がいまも輝き、そして清志郎の歌が永遠にうたいつがれるのかがわかります。
しかしかならず永遠をおもうてうたう
わたしの死ぬるのちにかがやかぬ詩なら
いまめのまえでほろびてしまえ
NEWS板橋校室長
三木 裕