ベストセラーになった本の題名です。ドラマにもなったでしょうか? といっても、すみません、ぼくは本もドラマも見ておりません。ただし、この『嫌われる勇気』を特集したある雑誌を読みまして、そこに出てきた言葉をご紹介したいと思って書いております。
読んだのはスポーツの写真をたくさん載せている『Number』という雑誌です。ラグビーの元日本代表ヘッドコーチとしてあの2015年ワールドカップの奇跡を起こしたエディ・ジョーンズの長文のインタビュー記事が載っておりました。エディはこういっていました。
『選手に嫌われても、まったく構いません。ただし、選手から敬意を持たれていないとすれば、それは指導者失格です。』
おお、と思いました。すとんと体の奥に入ってくるような気がして、大いに共感できました。前半の言葉だけなら、わりと見かける気がします。エディは、ものすごくハードなトレーニングを選手にさせることで有名なコーチです。嫌っている選手もいるかもしれません。しかし、大事なことは後半の部分があることですね。記事はつづきます。
『私はヘッドコーチとしての職務を全力でこなしている。その点についてリスペクトしてもらえなければ、嫌われる勇気の意味はないでしょう』
だれだって、無意味に人に嫌われたくはないでしょう。しかし、時には人に嫌われてでもやらなければいけないことや、いわなければいけないことがあります。ただそのときに、嫌われる勇気を持つことを免罪符のようにしている人はいないでしょうか。嫌われる勇気があるから、なにをいってもいいのだ、と話をすり替えている人はいないでしょうか。
ぼくも教育機関で仕事をしているものですから、子どもたちを叱ったり、きつい言葉をいわなければならないときもあります。人に迷惑をかけることや、危ない行為などは、ぼくは特に注意しています。嫌われてもいいと思ってやっているわけではなく、自然とやらなければいけないと思うのでやっているだけですが、その気持ちの中に、自分が正しいからなにをいっても許されるのだという傲慢な気持ちは入っていないか、常に注意しなければいけません。嫌われてもいいという言葉を開き直って使わないようにしなければいけません。相手が敬意を持ってくれる叱り方、指導の仕方を考え続けなければいけないのだと思います。
世界一のハードワークも、それを選手自身が自分でやろうとする勇気が一番大事なのだとエディはいいます。子どもたちを注意したとき、指導したとき、勉強を教えるとき、子どもたちが、自分で理解して、納得して、自分からなんでもやってくれるのが一番いいです。そんな勇気をみんなに持ってもらえるように、ぼくも自分を鍛えていかないといけないですね。エディーの言葉を読んで、そう思いました。