授業中、高校2年生の男の子が悲痛な声を上げました。
「どうして、古文は主語がないんですか? だれがいっているか、わかりにくいですよ!」
そうですね。実際、この台詞はだれの言葉ですか、という問題はよく出題されます。
でも、考えてみたら、どうして古文は主語が省略されることが多いのでしょうか? ちょっと気になったので、いろいろ調べてみました。さまざまな理由があるようですが、ぼくが、なるほど、と思ったのは、『古文だけ主語が省略されているのではなく、現代文も含め、日本語そのものが、主語を省略することが多い言葉なのだ』というものです。外国語に比べて、日本語は主語を省略しても、文脈でだれが話しているかがわかりやすいのだというのです。
ということで、校舎にあります現代の小説を見てみました。たまたま近くにあった本を適当にめくってみました。
電話の子機を手にし、店屋物を注文する時のために作ってあるファイルを開いた。しかし寿司屋の品書きを見て、少し迷った。いつも注文するのは並の盛り合わせだった。
東野圭吾『容疑者Xの献身』
石神という容疑者の家を湯川という探偵がたずねた場面ですが、ひとつも主語がありません。ですが、その前の部分で、これが全部石神の行動だとわかります。
わたしはリュックサックを積み込むと、彼女の隣に腰をかけて、彼女と握手をした。彼女はガスを入れた。車は滑り出した(そこでわたしはテクテク歩かずにすんだわけだった)。
エーリヒ・ケストナー『一杯の珈琲から』
ドイツ語の直訳なのだと思われますが、几帳面に主語をしっかり書いてあります。省略できそうな主語もありそうですね。
ほんのすこしの例ですが、たしかに日本語と外国語のちがいが感じられます。気にしながら読むとおもしろいかもしれません。
ということで、古文の主語も全体を読めば自然とわかるはずなのですが……。これはなかなかむずかしいですね! がんばれ! あまり一つひとつの単語にこだわらず、全体を俯瞰で見ると、ちょっと見えてくるかもしれません。でも、その男の子の疑問で、おもしろい研究ができました。ありがとう! こういう、ちょっとした疑問から、国語や古典や言葉に興味を持ってほしいなと思います。