- 下に載せました二つの文章を読んでみてください。
- 『 私がはじめてテリー・レノックスに会ったとき、彼は〈ダンサーズ〉のテラス前のロールス・ロイス“シルヴァー・レイス”のなかで酔いつぶれていた。駐車場から車を出してきた駐車係は、テリー・レノックスが左足を自分のものではないといったように車の外にぶらぶらさせているので、ドアを閉めることができなかった。顔は若々しく見えたが、髪はまっ白だった。
- 私はめったに心を動かされない性質だが、彼はどこかに私の心をとらえるものを持っていた。それがなんであるかはわからなかった。 』
- 『 テリー・レノックスとの最初の出会いは、〈ダンサーズ〉のテラスの外だった。ロールズロイス・シルバー・レイスの車中で、彼は酔いつぶれていた。駐車係の男はその車を運んできたものの、テリー・レノックスの左脚が置き忘れられたみたいに外に垂れ下がっていたので、ドアをいつまでも押さえていなくてはならなかった。酔っ払った男は顔立ちこそ若々しいものの、髪の毛はみごとに真っ白だった。
- 私は感情に流されずに生きるように努めている。しかしその男には、私の心の琴線に触れる何かがあった。それがどんなものなのかはよくわからなかった。 』
- 似たような文章が並んでいると不思議に思われたかもしれません。あるいは、テリー・レノックスという名前で、わかった方もいらっしゃるかもしれません。この二つの文章は、どちらも同じレイモンド・チャンドラー作品の冒頭部を訳したものを、ぼくが選んで引用したものです。
- 最初のものは、清水俊二訳で1958年に『長いお別れ』として出版されました。そして、次のものは最近出版されて話題になりました村上春樹訳『ロング・グッドバイ』です。
- ほんのわずかばかりの引用ですが、それでも特徴がよくあらわれていると思いました。清水訳は短く簡潔にスピーディーな文章、そして村上訳は、丁寧に厳密に訳されているという感じでしょうか。上記の部分でも、村上訳のほうが、一文ずつ文が増えて訳されています。理由はいろいろあると思いますが、読者としては、『ロング・グッドバイ』のあとがきで村上春樹氏が述べているように、どちらも楽しんで読むのがよいのかなと思います。読み比べというのはあまりする機会はありませんが、とてもおもしろく読めました。
そうして思いましたのは、やはり日本語というのは、とても豊かで味わい深いものなのだということです。ひとつの作品でも、このように楽しむことができるのです。 - 作文を書いてもらうときも、正解はひとつではありません。その子なりの表現というものが必ずあります。それを見つけ、伸ばしていかなければなりません。作文の先生として、あらためて、そのことをしっかり受け止めていきたいと思います。
NEWSおもしろ作文倶楽部コース責任者
三木 裕