A
ひとたび死んでしまえば、どこに眠ろうが問題ではない。油で汚れた試掘坑だろうと、高い丘の上の大理石の塔だろうと。ひとたび死に、大いなる眠りに入れば、そんなことにわずらわされることもない。
B
いったん死んでしまえば、自分がどこに横たわっていようが、気にすることはない。汚い沼の底であろうが、小高い丘に建つ大理石の塔の中であろうが、何の変わりがあるだろう? 死者は大いなる眠りの中にいるわけだから、そんなことにいちいち気をもむ必要はない。
C
死んだあと、どこへ埋められようと、当人の知ったことではない。きたない溜桶の中だろうと、高い丘の上の大理石の塔の中だろうと、当人は気づかない。君は死んでしまった。大いなる眠りをむさぼっているのだ。そんなことにわずらわされるわけがない。
似たような文が並んでおります。これは、以下の本の訳となります。
A
おそらくは夢を(早川書房)
ロバート・B・パーカー
石田善彦訳
B
大いなる眠り(早川書房)
レイモンド・チャンドラー
村上春樹訳
C
大いなる眠り(東京創元社)
レイモンド・チャンドラー
双葉十三郎訳
AとB、Cの作者が違いますが、この部分は、レイモンド・チャンドラーの文章を使っていますので、原文は同じです。もともと、レイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』という本があり、チャンドラーは、そのつづきの冒頭を書いたところで亡くなってしまいました。そのあとを書き継いだのが、ロバート・B・パーカーなのですが、原稿の最初に、『大いなる眠り』の最後の部分がそのまま掲載されており、ちがう訳となっていたのでした。
ぼくが読んだ本の出版年を見ますと、A2007年、B2014年、C1959年となります。みんな文庫本でしたので、実際はそれよりも何年か前だと思います。
つい最近、Bの村上春樹訳を読みました。とても読みやすかったです。字も大きくて、それも理由かもしれません。新訳に関しては、ぼくなんかも含め、古いファンには、わりと抵抗があったりしますが、読んでみたら、ぜんぜん気になりませんでした。
ただ、ちょっと好奇心で、3つ並べてみたりしますと、やはり、訳者によって、ずいぶんちがうなあ、とは思います。一番古い、双葉十三郎訳は、省略や、意訳などが多いという話は聞いたことがあります。実際に、この数行の中にも、ほかの2つにはない『君は死んでしまった。』の一行があり、しびれてしまいました。いかにもマーロウ(主人公のタフな探偵)がいいそうなセリフなのです。
どれがいいとか、ましてや、どれが正しいということではなく、みんな楽しむのがいいのでしょうね。この3つだけでも、1つだけ、自分のことを「わたし」と表記するものがあり(ほかは「私」)、それでもずいぶん印象が変わると思いました。ぼくは、「私」がしっくりくると思いましたが、どうちがうのかと聞かれても、うまく答えられません。雰囲気とか、イメージという抽象的なものになってしまいます。新しい訳が2つとも「大いなる眠り」という、やや時代を感じる言葉をそのまま使用しているのは、やはり、有名な双葉訳へのリスペクトなのでしょう。言葉というのはおもしろいなあ、と思います。
実際の学校のテストの英訳や、古文の現代訳にも、こういう個性や、意訳みたいなものがあったら、おもしろいかも、と思いました。先生の丸付けは大変でしょうが……。そういう授業も楽しそうだと思いました。いかがでしょう?
もとの英語の文は以下のとおりです。あなたなら、どのように訳しますか?
What did it matter where you lay once you were dead? In a dirty sump or in a marble tower on top of a high hill? You were dead, you were sleeping the big sleep.