新聞でとても驚いた記事があったのでご紹介いたします。それは、あの名作、新美南吉の『ごんぎつね』のオリジナル原稿というのがあって、いま普及しているものと違っているのだという記事でした。『ごんぎつね』は、教科書にも載っている有名な物語で、最後、鉄砲で撃たれる場面で終わります。そして、なんとその最後の場面も違っているのでした。
「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは。」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました。
兵十は、火縄銃をばたりと、とり落としました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。
これが、初掲載の雑誌『赤い鳥』のものを踏襲したと思われる、ぼくらが読み、いまも読み継がれている作品の最後です。とても悲しい、余韻の残る終わり方です。では、新美南吉の自筆原稿ではどうなっているでしょうか(一部旧かな遣いを直しています)。
「権、お前だったのか……。いつも栗をくれたのは―。」
権狐は、ぐったりなったままうれしくなりました。兵十は、火縄銃をばったり落としました。まだ青い煙が、銃口から細く細く出ていました。
漢字の表記であったり、言葉遣いなどにも違いがありますが、なんといっても、ごんの気持ちですね。『うれしくなりました。』とはっきり書かれているのです。ぼくが読んだもの、そして、いまも教科書に載っているものは、そこが書かれていません。だからこそ余韻が残るともいえるかもしれません。最後までわかってもらえずごんはかわいそう、と思っていた子たちが、この一行を知ったら、どう思うでしょうか。少し救われたと思うでしょうか。
どちらがいいとは簡単にはいえませんし、どちらを最初に読むかでも変わってくるでしょう。新聞にも書かれていましたが、読み比べをすることも大事なのかと思います。ただ一行加わった(あるいは無くした)だけでこんなにも印象が変わることに驚きました。物語の森は本当に豊かで深いです。それが国語のおもしろさなのかもしれません。
NEWS板橋校、NEWS青葉台校、NEWSセンター北校室長
三木 裕