司馬遼太郎のエッセイを読んでおりましたら、『正義』について書かれている場所が目に留まりました。いくつか書いてみます。
『正義という人迷惑な一種の社会規範は、幕末以前には日本になかったといっていい。言葉も、幕末に日本語になった。』
『正義という多分に剣と血のにおいのする自己貫徹的精神は、善とか善人とべつの世界に属している。』
『正義という電球が脳の中に輝いてしまった人間は、極端な殉教者になるか、極端に加害者にならざるをえない。』
かなり厳しい言葉が並んでいます。どう考えても、『正義』という言葉をよく思っていないことがうかがえます。氏の書かれたたくさんの小説から想像するに、正義という概念というよりも、それを絶対的なものとして、権威を振りかざしたり、力ずくですべてを決めてしまうようなものへの怒り、抵抗の表れではないかと思われます。それにしても、はっきりと書いているところが、すごいと思いました。
そして、『正義』という言葉が使われている歌が、ぼくの脳裏に浮かびました。セカイノオワリ(SEKAI NO OWARI)の『Dragon Night』という歌です。でかいトランシーバーみたいなものを持って歌っています。別にファンというわけではなく、といいますか、ぜんぜん知らないのですが、たまたまこの歌だけは知っていました。そこに正義という言葉が出てくるのです。
『人はそれぞれ「正義」があって、争いあうのは仕方ないのかもしれない
だけど僕の嫌いな「彼」も彼なりの理由があるとおもうんだ』
『人はそれぞれ「正義」があって、争いあうのは仕方ないのかもしれない
だけど僕の「正義」がきっと彼を傷付けていたんだね』
そして、最後にこう歌います。
『今宵、僕たちは友達のように歌うだろう
今宵、僕たちの戦いは「終わる」んだ
今宵、僕たちは友達のように踊るんだ』
うーん。甘いですねえ。きっぱりとした覚悟の司馬遼太郎のあとでは、これでいいのかい、とお説教でもしたくなります。
ただし。その一方で、この甘さが必要なときもあるのかも、とも思ったのですね。もっとかんたんに、いいからとりあえず踊ってみようよ、そんな気持ちがあまりにいまの世の中は足りないんじゃないの、という気もするのです。いま、毎日、選挙の車が走り回り、テレビや新聞やインターネットで、さまざまな立場の正義が語られています。来週には結果が出ているわけですが、その結果で、この国は前よりもよくなるのでしょうか。人の話を聞かない人ばかりいるように見えますが、もういいから、まずいっしょに踊ってみるところから始めたら? そんな甘さが、もしかしたら、世の中を変えるのかも、と思ってしまうぼくも、かなり甘い人間なのでしょうか?
ふだん、たくさんの子どもたちといっしょにいると、みんなはみんななりにすごくたいへんで、いろいろな『正義』や『争い』に疲れている子も多いように見えます。NEWSにいるあいだは、好きな歌をうたってほしいな、と思っています。いつか、その歌が世界を変えるかもしれません。